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東京家庭裁判所 昭和41年(家)290号 審判

申立人 村川康治(仮名)

主文

申立人は、無籍につき

本籍     東京都世田谷区代田五丁目八七六番地

筆頭者    村川康治

父母     不詳

父母との続柄 男

名      康治

出生年月日  昭和一〇年三月八日

として就籍することを許可する。

理由

一、申立人は、主文と同旨の審判を求め、その事由として述べるところの要旨は、

1.申立人は、日本で出生し、今日まで日本において居住生活している者であるが、国民学校在学中に朝鮮人といわれたり、幼い時の記憶を辿ると、朝鮮人部落のような所に住んでいたようでもあり、また雇主が朝鮮の人であったことから、昭和三五年一月一一日兵庫県神戸市灘区長に対し国籍朝鮮として外国人登録の届出をした、

2.申立人は、昭和三八年一〇月頃日本人である大山弘子と事実上の婚姻をし、爾来同女と肩書住所において同棲している、

3.申立人は、正式に右大山弘子との婚姻届出をする前に、日本に帰化しようと思い、所轄法務局係官に相談したところ、国籍が朝鮮であることを証明する資料が必要であるといわれ、たまたま申立人が、大阪府泉南郡○○村立○○国民学校(現在△町立○○小学校)に昭和一七年頃から昭和二〇年頃まで在学したことを思い出し、同校に照会したところ、同校に申立人の学籍簿が存することが判明し、その学籍簿の記載によると、申立人の本籍は大阪府堺市○○町三丁目六一番地となっており、申立人が日本人であり、申立人が前記の如く、朝鮮人として外国人登録をしたことは誤りであることが判明した、

4.しかしながら、右の本籍地である堺市役所に照会したところ、右学籍簿の記載に該当するところに申立人の本籍はなく、その他の地にも申立人の本籍は見当らず結局申立人の本籍は不明であるので、就籍を許可されたく、本申立に及んだ、

というにある。

二、よって審案するに

1.本件記録添付の外国人登録原票写によれば、申立人が昭和三五年一月一一日に兵庫県神戸市灘区長に対し国籍朝鮮(慶尚南道)氏名李光源(村川康治)、出生年月日一九三五年三月八日、出生地大阪府堺市○○町、居住地兵庫県神戸市灘区○○○三丁目八一番地○○アパートとして外国人登録届出をしたこと、

2.家庭裁判所調査官代田和一の調査報告書および申立人に対する審問の結果によると、申立人は日本において出生し、以来今日まで日本に居住している者であるが、申立人の記憶では申立人が幼時朝鮮人部落のような所に住んでいたことや、国民学校在学中に級友から朝鮮人といわれたり、にんにくくさいといわれたり、父は村川長良と称していたが、李長良とも呼ばれていたことから、申立人は自分は朝鮮人の子でないかとかねて考えていたところ、たまたま申立人が昭和三四年一〇月頃勤務することになった兵庫県神戸市灘区所在○○輸出敷物工業所の経営者が北朝鮮出身者であり、北朝鮮が住みよい所だから、一度同国へ行ってみたらどうか、そのためには朝鮮人として外国人登録をしておく必要があるとすすめられたため、申立人は前記の如く外国人登録をするに至り、その際朝鮮の住所は分らないので、日本に近い慶尚南道を選んで以下不詳としたこと、

3.家庭裁判所調査官代田和一の調査報告書および申立人に対する審問の結果によると、申立人は、その後昭和三六年一一月頃東京都港区赤坂所在の外国商社○○○○カンパニーに入社して、東京都新宿区若松町に移住し、間もなく東京都中野区鷺ノ宮に居住していた日本人大山弘子と知り合い、昭和三八年一〇月頃同女と事実上の婚姻をなし、以来肩書住所において同女と同棲しているのであるが、昭和三八年一一月頃正式に同女との婚姻届出をする積りになり、それにはまず日本に帰化して日本人となる必要があると考え、所轄の法務局係官に帰化の手続について相談したところ、国籍が朝鮮であることを証明する資料が必要であるといわれ、たまたま申立人が大阪府泉南郡○○村○○国民学校(現在△町立○○小学校)に昭和一七年頃から昭和二〇年頃まで在学したことを思い出し、同校に照会したところ、同校に申立人の学籍簿が存することが判明し、その学籍簿の記載によると申立人の本籍は大阪府堺市○○町三丁目六一番地となっておったので、早速右本籍地の堺市役所に照会したところ、右に該当する申立人の本籍はなかったが、申立人は右資料により、朝鮮人でなく日本人であるとの確信をもち、この旨法務局係官に連絡したところ、同係官は、申立人は帰化の手続をするよりも、むしろ家庭裁判所に就籍許可の審判を求めてみてはどうかと指示されたので、申立人は本件申立をしたものであること、

4.本件記録添付の○○小学校保管の学籍簿の写しによると、同学籍簿には、村川光源なる者が、昭和一七年四月(第二学年第一学期)から昭和二〇年三月(第四学年第三学期)頃まで○○国民学校に在学したこと、同人は昭和一〇年三月八日生れで、本籍が堺市○○町三丁目六一番地であり、住所が○○村二、六六八番地であり、保護者は兄の村川斗正である旨の記載があり、これと申立人の審問の結果と合せ考えると、右村川光源は申立人本人であること、

5.本籍照会に対する堺市彼所の回答書および居住照会に対する岬町役場の回答書によると、前記学籍簿の記載に該当する申立人の本籍が存在しないこと、

6.家庭裁判所調査官代田和一の調査報告書、指紋照会に対する警察庁刑事局鑑識課の回答書および申立人に対する審問の結果によると、申立人の父は村川長良または李長良と呼ばれ、母は村川つねと呼ばれ、父母が○○村に申立人および兄村川斗正とともに居住していた頃は、兄斗正が一家の生活を支えており、したがって兄斗正が学校の保護者ともなっていたのであるが、昭和二〇年四月頃の米軍機による空襲で、居宅が焼失し、その際父は死亡し、兄は所在不明となったので、申立人は母に伴われて、和歌山県下に疎開した後、間もなく所用で母のみ大阪へ赴きそのまま行方不明となり、申立人は戦災孤児となり、終戦後は、約二年間和歌山市や横浜市の駐留米軍のハウスボーイをした後上京し、約二年間上野附近で浮浪生活を送ったこともあったが、その後は正業に就き、タクシーの運転助手、パチンコ店店員、工員を経て、現在の勤務先に会社員として就職するに至ったのであり、その間破廉恥な犯罪を犯したことはなく、ただ前記の如く、外国人登録をした際外国人であるのにそれ迄登録を怠ったことで、昭和三五年九月一〇日神戸灘簡易裁判所において外国人登録法違反の罪として罰金一万円に処せられたことがあるだけであること、

がそれぞれ認められる。

三、以上の認定事実、とくに、申立人の父は、李長良または村川長良と呼ばれ、また申立人も村川光源と呼ばれその兄も村川斗正と呼ばれていたこと等からすると、少くとも申立人の父が朝鮮出身者ではないかとの疑問があるのであるが、その出身地等が不明であり、申立人の父が朝鮮人であるかどうかはもとより、その氏名をも確定することはできないし、また以上の認定事実によると、申立人の母は村川つねと呼ばれていたというのであるが、この母についても日本人であるか朝鮮人であるか、また申立人の父と正式に婚姻届を出していたものであるかはもとより、その氏名も確定することはできないのであって、結局のところ父母ともに知れないというほかない。

しかしながら、前記認定事実によれば、申立人は日本において出生した者であることは間違いのないところであり、申立人は国籍法第二条第四号にいわゆる「日本で生れた場合において、父母がともに知れないとき」に該当し日本国民であるとするほかはない。

四、そうだとすると、申立人は日本国籍を有するものであるから、申立人が前記の如く国籍朝鮮として外国人登録をしているのは誤りであり、申立人が本籍を有しないこと前記認定のとおりであるから、申立人の就籍の許可を求める本件申立は理由があるといわなければならない。

よって主文のとおり審判する次第である。

(家事審判官 沼辺愛一)

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